雖然這篇羅敷丈夫鄉民發文沒有被收入到精華區:在羅敷丈夫這個話題中,我們另外找到其它相關的精選爆讚文章
在 羅敷丈夫產品中有15篇Facebook貼文,粉絲數超過19萬的網紅王薀老師,也在其Facebook貼文中提到, 賽比羅敷奇女子 說起我青蔥志學的時光中,除了道家師尊外,尚有一位至今仍然令我時有停雲懷想之女性長者,她在我心目中如師如母般受我敬重。張月桃女士因和我之家族有著遠親般之關係,自小就稱她為伯母,她非比一般尋常的老輩婦女,也許可以用堂堂鬚眉、難比裙衩來形容,原因是張伯母有著賽比羅敷的堅貞不拔,雖是女兒...
同時也有11部Youtube影片,追蹤數超過7,420的網紅まとめまとめの,也在其Youtube影片中提到,【まとめのまとめ】 チャンネル登録はこちら https://goo.gl/QN6ioA 昨年の暮れに会ったときは 元気だった祖母がボケ始め、 数か月で一気に認知症が進行し、 母の友人のツテで特別養護 老人ホームに入ることになった。 4月くらいに実家に帰った際、 祖母と同居していた両親と ホ...
羅敷丈夫 在 こつぶ@日本一周 Instagram 的最佳貼文
2021-04-04 16:49:13
日本一周143日目 三重県 【伊賀流忍者(∩'-'⊂)(∩'-'⊂)ニンニン】 楽しい旅人お泊まり会から明けて、鈴鹿から伊賀市へ。 お目当てはもちろん伊賀忍者博物館! ちょっと前にバジリスク見てたから行っときたくて、、 (まだ最後まで見終わってないのでネタバレ禁止!笑) ...
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羅敷丈夫 在 まとめまとめの Youtube 的最佳解答
2019-01-02 14:00:02【まとめのまとめ】
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昨年の暮れに会ったときは
元気だった祖母がボケ始め、
数か月で一気に認知症が進行し、
母の友人のツテで特別養護
老人ホームに入ることになった。
4月くらいに実家に帰った際、
祖母と同居していた両親と
ホームに面会に行ったら、
祖母は俺の顔も名前も覚え
てなかった。
幼い頃から可愛がって
もらっていたのですごく
ショックだったが、
今までずっと家で農作業や
家事を気張ってやっていた分、
これからはホームで
悠々自適に過ごして欲しいと
思うようにした。
それからしばらくして、
仕事中に違和感を感じる
ことが多くなった。
毎日書いているはずの書類に
書く言葉が出てこない。
いつもは電卓など使わずに
計算してる計算ができない。
毎日顔を合わせているはずの
同僚の名前が出てこない。
引継ぎで言うべきことがわからない。
引き継がれたことが覚えられない。
そんな状態が一週間くらい続き、
仕事でミスが増えた。
祖母のことがあまりにショックで、
自分が思うよりもずっと
精神的に疲れてるんだろうと思い、
数日間有休をとって実家に帰った。
続きます
それで、実家に帰った日の夜、
両親と三人で晩飯を食べていたとき、
急に自分が全く知らない
場所にいるような感覚に陥った。
目の前で飯を食っている
おっさんとおばさんが誰か
分からない。
ここはどこだろう、俺は何を
してるんだろうと自問自答
してみると、
今度は自分の名前が出てこない。
考えようとすればするほど
頭が全然働かなくて、
軽くパニックになった。
うまく言えないけど、
自分の意思と脳の考える
部分をつないでるシャフトが
なくなってしまったような感じ。
気付いたら茶碗もコップも
放り出して「うあああー」
って叫んでた。
そこから記憶が曖昧なんだけど、
母が
「ちょっとあんた!!
どうしたの大丈夫!?」
とか叫んでたような気がする。
目が覚めると居間に敷かれた
布団にいた。
むくりと起き上がった俺に、
母が気付いて
「起きた?
じゃあちょっと深呼吸して」
と言うので、
大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
母がお茶を入れて持ってきたので、
ゆっくり飲んだ。
母は心配そうな顔をして
「よっぽど仕事疲れてたんかねー、
ちゃんと休まんといけんよ」
と言った。
不思議なことに、この時点で
頭は妙にすっきりしてて、
自分がいるのは実家の居間で、
母は母だとすぐわかった。
自分の名前も、会社の
名前も、今日が何月何日で
なぜ今実家にいるのかも
スッと頭に浮かんだ。
有休終わって会社に行くと、
以前と同じように問題なく
作業をこなせるようになっていた。
書類や引継ぎにミスが出る
ようなことはなくなった。
まるで一時的に認知症に
なったみたいだった。
分かっているのに出来ない、
伝えられない歯がゆさ。
自分の意思とは関係ない
ところで「考える」という
ことができなくなる恐ろしさ。
ふと、祖母ももしかしたら
あんな経験をした
んだろうかと思うと勝手に
涙がぼろぼろ出てきた。
あれから3か月くらい経ったが、
あれ以来物事が急に
分からなくなったりする
ことは今のところない。
会社の健康診断でも特に異常なし。
原因が何だったのか、
なぜ急に快方に向かったのか、
全くわからない。
ただ疲れてただけなのか、
それともオカルト的な何かなのか、
はたまた若年性
アルツハイマーとかいう
ものの前触れだろうかと色々
調べたりしたけどわからない。
とにかく
「今まで出来ていたはずの
ことが突然出来なくなる」
というのは個人的にかなりの
修羅場だった。
長々とすんません -
羅敷丈夫 在 まとめまとめの Youtube 的精選貼文
2018-04-20 12:00:07【まとめのまとめ】
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最近ようやく解決した話です
フェイクと伝聞入れたら
つじつまが合わなくなって
しまいましたがやったこと
やられたことはフェイク入れてません
登場人物
(当時の年齢)
父、母、
(兄がいますが全く関わってません)
姉(37)
義兄(45)
私(25)
義兄妹
(3739)
義兄妹旦那、娘、息子、息子
(小学中学)
義兄父、母
姉夫婦は外国で出会って、
そこで結婚した
知り合うきっかけが同郷で、
話すと当時校区も隣で、
世間は狭いという馴れ初め
姉とは年もかなり離れていて、
し
ょうがっこうにあがるころには
留学していたので姉妹という
感じはなかった
海外挙式だったため、
結婚式も高齢のペットがいたため、
私は家に残り両親と兄と兄の
お嫁さんが結婚式に出席した
それから何年か経って、
姉夫婦が戻ってくることになった
母が何の気なしに姉夫婦に
区画整理されて、
新しいマンションが建つと
話をしたかららしい
あとから聞いたが、老後も
外国で過ごすか日本に戻るか
丁度悩んでいたらしい
半年後、突然マンションを
買ったから日本に帰ると言ってきた
実際にはそれから半年後に
帰ってくる予定だと言っていた
管理というか家具が届くから
手続きと受け取りをして
欲しいと両親が頼まれその
何度かは私が請け負うことになった
年齢が離れている、直接
お祝いができないということで高校、
大学、就職とかなりの
お祝いをもらっていたため
何か返すことをしたかったため、
二つ返事で請け負った
ベッドの搬入は最後の最後で、
ちょっと特殊な大きさだった
業者の手違いでマットレスの
大きさが違い、
また後日マットレスを搬入は
することになった
そのことを姉に知らせると、
手間とらせてごめんねと
何度も謝られた
その後日はかなり遠く、
ベッド搬入から一ヶ月後、
姉夫婦が帰ってくる3日前になった
その間、まったく
マンションへ寄り付いて
おらず埃もたまっているだろうし
姉もすぐに帰ってくるからと
掃除用具を携えて向かった
しかしそこに広がったのは
ゴミ屋敷寸前の状態で、
部屋を間違えたかと思った
コンビニのお弁当の空き箱や
ティッシュの丸めたもの、
お菓子の袋に食べかすを踏んだ跡
まだ大きな家具しか入っていないし、
盗まれるものもないが、
パニックになり24した
事情を話していると部屋に
誰かが入ってきて、
何か怒鳴られてケータイを
奪われたがパニックになり
すぎてよく覚えてない
住所は伝えたし、逃げ切れば
どうにかなると思い
スリッパのまま飛び出した
自分よりもはるか年上の男女
二人組でとマンションの
管理人にケーサツを呼んで
くれと訴えた
それからケーサツが来たり、
両親が慌てて飛んできたりと
大事になった
リビングとベッドルームは
大惨事で特にベッドは
合わない安物の薄い
マットレスを敷いていたため
あちこちに行為した飛沫が飛んでいた
トイレもお風呂もどうしたら
ここまで汚せる
のかというくらい汚くて
両親と共に姉夫婦にどう
伝えたらいいか頭をかかえた
マットレスは都合が悪くなったので、
しばらくそちらで預かって
もらえないかと言ったら
大丈夫と言ってもらえたので、
とりあえずの難はしのいだ
その日の夕方には犯人が
名乗り出てきた
犯人は義兄の妹で、不倫の
密会場所に使っていたらしい
流石に帰ってくる3日前なので、
片付けたり掃除したり
しようとしに来たところで
偶然私と鉢合わせしたらしかった
向こうは地元でやった
お披露目会の時に会った私を
覚えていたが、
私は当時の中学生だったこともあり、
誰が誰だか自分の親戚もよく
わからない状態で義兄の妹の
顔などさっぱり覚えていなかった
顔を見られたから自首をしたらしく、
私が覚えていなかった旨を
知るとたいそう暴れたらしい
ここからは姉夫婦と義兄妹
夫婦の話なのでざっくりと
姉夫婦は家具諸々全て引払い、
それを慰謝料に上乗せして、
他の新築マンションへ引っ越した
引っ越すと言ってもそもそも
1日も住んではいなかったけど
義兄妹夫婦は再構築しようと
したけど、
義兄の妹が私に対して
嫌がらせをしてきた
このままじゃ子供に影響が出
かねないという理由で、
結局離婚した
義兄の両親は自分達が
預かっていた鍵がこんな
ことに使われたと気に病んでいた
嫌がらせも車にマヨネーズが
塗られていたりした程度だったので、
あまりの消沈さにこっちが
申し訳ない気持ちになったりした
姉夫婦はざっくりしたもんで、
新しい勤め先を探しながら
慰謝料をぶんどり
義兄妹が離婚するなり、
義兄妹の住み込みの就職先を
探してきてそこへ放り込んだ
飛行機の距離だから、
これ以上私に嫌がらせも
できないだろうと笑っている
姉夫婦に別の恐怖を感じたりもした
義兄妹の子供たちが不安定になり、
うちに文句を言いに来たり
したが姉夫婦が心療内科に
さっくりと放り込んで迅速に
ケアしたおかげか先日、
謝罪と経過の報告に来たので、
ようやっと終わったのだと実感した
書いてみたらイマイチ
修羅場感が薄いので、
三行にまとめると姉夫婦の
新居が無残な使用済みになってた
義兄妹の子供たちに罵詈雑言吐かれた
姉夫婦は敵に回したらダメだ
ひえー…お疲れ様でした…
つか、そんな汚部屋に仕上げ
られるスキル持ってて
ちょっと掃除したぐらいで
現状復帰できると思ってたのかね
まあ不倫するようなやつの
考えなんて浅はか以外ないか
姉夫婦は敵にまわしちゃダメ、
というより、外国に長く
暮らすとこういうトラブルに
強くなるんでしょうね。
スクワッター?だっけ、
イギリスとかの不法占拠する人たち
あんなのと比べたら姉
夫婦にとってはどうという
ことも無いのかもしれないね -
羅敷丈夫 在 まとめまとめの Youtube 的精選貼文
2018-04-20 08:00:00【まとめのまとめ】
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子供の頃から優等生でいい
大学出ていい会社に就職した
兄が半年もたずに会社辞めた。
人間関係がうまく
いかなかったらしい。
それで引きこもり
(独り暮らし)
になったんだが親も親戚も、
妹の私もどうしていいか
わからなく立ち直るまで
そっとしとこうということになった。
月は流れ、兄はまだ引き
こもりだが私は結婚し子ができた。
結婚式のときも招待したが
兄は来てくれなかった。
今度も応答はないだろうと思いつつ
「子が生まれた。
実家にいるから良かったら
顔だけでも見てやって」
と留守電に入れておいた。
(兄は基本電話に出ないから
留守電を通さないと連絡できない)
そしたら夜になって兄が
ひょっこり実家にやって来た。
数年ぶりに会った兄は…
「嫌な2ちゃんねらー」の
典型像みたいな人になってた…
しかも「ネトウヨ」「DQN」連呼。
ちょうどテレビでフィギュア
スケートを放映していて
うちの両親は
フィギュア好きだからわりと
熱心に見てた。
兄
「バカな年寄りが
テレビばかり見ているから云々」
「偏狭なナショナリズムが
云々それがバカな
ネトウヨを生む云々」
と大演説をはじめた。
父母に対しては「老害が云々」
私に対しては
「生産性のないバカが云々」
(フィギュアの女子選手の
ことを全部下品な代名詞
(?)呼ばわり)
私の子に対しては
「DQNネームだから就職も
できない云々pgr」
ちなみにうちの娘は「子」
はつかないものの
薫とか恵とかのよくある名で
キラキラネームでもDQN
ネームでもない。
孫までバカにされたことで
ついに今まで一貫して兄に甘
甘だった父親がはじめてブチギレた。
もうそこからはとっくみ
あいの大喧嘩。
皿は割れ料理は床に散乱、
椅子で兄を殴る父、床を
転がりまくる兄。
私はいちはやく子を抱えて
トイレに鍵かけて避難。
母は二人を止めようとしてた
ようだが途中で諦めて座敷に避難。
静かになったので
おそるおそるリビングに戻ってみたら
もう兄は帰ったみたいで父が
一人で座り込んで泣いてた。
両親は兄への仕送りをやめたそうだ。
兄がうちに恨み言を言いに
電話してきたが
「ずっと両親の愛は俺が
独り占めだったのに無能でも
ガキ産んだだけでとって変
われるんだから楽なもんだな」
などというしょーもない
内容だったのであとは放置
して録音だけして親と親戚に
聞かせてやった。
うちの娘のことも
バカ呼ばわりの言い草に父が
また泣いてた。
ここだけの話、優秀な
兄だけを可愛がって私を長年
無視してくれてた
両親に対し「ざまぁ」という
気持ちあることは否定しない。
兄はもう産廃同然だから
どうでもいい。
修羅の道を快走中じゃないか、
君!
しばらくは身辺気をつけた
方がイイかも¥
仕送り止められて自暴自棄に
なってバカなこと
しでかすかもしれないから…
一人暮らしでひきこもりって
甘やかしすぎだろーw
同意。
今後が怖い。
これからが修羅場なんじゃないの…。
そんなキチガイ実在するの?
元々そう言う素質がなきゃ、
そこまで狂わないでしょ
> 優秀な兄だけを
可愛がって私を長年無視して
くれてた両親
自分らでせっせと熱心に産廃
育て上げておいて泣き暮らしとは、
まあお気の毒(棒
この両親に無視され目をかけ
られなくて、
本当に良かった。
うっかり
「可愛い女の子チャン」で兄
同様に仕込まれちゃってたら
糞コトメパラニートな中身に
育っちゃってた危険。
脱出オメ!
心配してくれてありがとう。
私は嫁いでやや遠方にいるし
詳しく書けないがそうそう凸
されない環境にいるから
たぶん大丈夫。
もし両親が私の職場なり
住所なりを兄にチクったら
両親とも疎遠決定ですね。
今のところ孫バカになっ
てるから大丈夫だと思いたいけど。
結婚式にも出なかったのに
妹の子どもが生まれて
わざわざ来たのはなんで?
と思ったが最後のレス見て納得。
自分の「愛され座」が
孫にとって変わられるから
アピールしに来たのね…バカだ…
まあ、産廃を製造した責任は
取ってほしいと思う
こんな人が職場にきたら最悪だし
兄ちゃんちょっと糖質っぽいよ
気にしてあげた方がいいかも…
っていうか絶縁レベルでしょ
触らぬ神に祟りなし
かかわらないほうがいいけど、
両親は責任もって
精神科に通院&入院させて欲しい
仕送りが最大の間違いだよな
働かずに食えるなら俺も
好きな事言って尊大になってると思う
羅敷丈夫 在 王薀老師 Facebook 的精選貼文
賽比羅敷奇女子
說起我青蔥志學的時光中,除了道家師尊外,尚有一位至今仍然令我時有停雲懷想之女性長者,她在我心目中如師如母般受我敬重。張月桃女士因和我之家族有著遠親般之關係,自小就稱她為伯母,她非比一般尋常的老輩婦女,也許可以用堂堂鬚眉、難比裙衩來形容,原因是張伯母有著賽比羅敷的堅貞不拔,雖是女兒身,但卻有丈夫之志。因為比鄰為居之緣,再加上她亦對佛、道有同寅之心,有時她南下訪友,家裡所設之佛堂也都會託我獻供,伯母對於仙佛之恭敬可從所設佛堂之莊嚴得見,偌大的櫸木地板和以檀木為主所設之佛壇,雖設於頂樓,但周圍卻無櫛比鱗次、鄰樓側伴,有種凌駕世外之感。兩三百坪清靜無比的廣袤殿堂,是張伯母每日早晚修真煉性心靈之所依處,伯母也善堪輿之學,因此有時我也假於佛堂稍做燕席禪修,卻有重增之效⋯⋯。
佛堂有遼闊的外庭做嚴飾,園中有間差有秩之盆景、石玩等穿插其中,在鬧市之中有此塵外之處,實屬難得。看這些盆景皆是比賽級之上選,清雅可掬,有小如可托於掌之淺盆,亦有出土彩硯之盆,也有紫砂段泥稍巨之盆,上面佐繪有四季山水之景⋯⋯看其爭奇鬥豔之姿,美不勝收,有些如羅漢瞳鈴眼般之松,有些奇枝參差,膚上結果,女兒牆周圍尚有五顏六色怒放之奇花為伴,加以矗立屋頂之上百年老松搔首弄姿,卻不失其剛勁巍峨之態,不少楓樹密處佛堂出口處,每至秋季火紅一片,煞是好看⋯⋯伯母乃一殷商遺孀,其父和我父親為換帖故交,有半世紀之緣,因此往來甚密⋯⋯。
其父自幼便授月桃伯母武術及仙道之學,更賦予吞吐升沉之術,因此雖然年紀已屆七旬,但望之風韻有姿,毫無歲暮之態。自從其父往生之後,更無後顧之憂,幾乎鎮日固守於佛堂之中,想必內學更深。伯母常說修道之人宜福慧並具,因此長年累月濟貧扶困,成為日課般從無稍歇,更有閒暇之時,便會授人予導引之術,或引氣治病,經常有不治之疾稍做炁調,便也完好如初。經年累月有緣從中觀看,拾寶不少,獲益匪淺。
伯母偏長於導引炁學,曾口傳不少此類服氣辟穀之小技予我,今略述一二,分享有緣。此法據傳乃清初李清雲老人之嫡傳所授,煉來其實也十分簡便,據說如果此氣煉成,可達八脈具通、百脈衝頂之效,共有十幾式而已。今天所結緣的乃服氣簡述之法,首先找一空氣暢通之靜處即可,先斷除前中後之念想、煩心之事,從頭至尾放鬆一至七次,接著眼睛平視正前方,嘴巴微開,當放鬆存真、毫無雜想之時,其實清淨之氣早已在內,因此只要兩鼻孔輕吸一口氣,配合咽喉之際所積之口水,如飲開水一般,分數口汩汩入臍,觀想慢慢吸入於丹田處,順時鐘旋轉數圈,再逆時鐘旋轉數圈即可。服氣時心中勿有雜念,頭需正,身體勿左右前後搖擺傾斜,吸氣時想像天地之間五種地水火風空至純、至正、至清浩然之氣,緩緩進入鼻喉,引入丹田⋯⋯。
行此功法時,引氣時不宜用力過猛,和平時自然呼吸一般即可,初學之人要避開閃電、打雷、暴風雨、大喜、大怒或飲酒之後,尤忌縱慾,據說如能行善積功配合,即便老邁之年,也無難治之疾產生,更何況其他。稍行操煉,持之以恆,最起碼可得免疫力增強之好處。
王薀老師
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羅敷丈夫 在 Middle Facebook 的最佳貼文
《消失的六月四》
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這不是一個愛情故事。
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這是一個關於未來的故事,敬請留意。
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2089 年,世界跟現在沒有太大差別,一樣馬照跑、舞照跳,一樣有人死、有人不想死;人類文明未有因為科技更加發達而出現突變,幾十年來似乎都一直原地踏步,除了以下這兩件事 —— 世界終於落成全球一體化,以及地球每年由三百六十五日變成為三百六十四日。
⠀
全球一體化、世界政府成立,是當時最重大的一件事,單單籌備慶典就已經花了一年時間,所耗資的人力物力更是難以計算。但是地球公曆每年少了一日,卻沒有太多人為意,甚至可以說,大家從來不知道地球原來有三百六十五日;大部份人都以為,地球每年就只有三百六十四日,除了每四年一閏、才會特別的有三百六十五日。沒有人提出過公曆為何會少了一日、更別說會對於六月三日之後就是六月五日這種不合邏輯提出過疑問。
⠀
除了嘉恩。
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嘉恩是一個喜歡異想天開的少女,平時專愛對一些旁人不會理會的微小枝節問長問短,例如手提電話明明被稱為電話、為何會有隨機相睇及計算個人總價值的這些非手提電話功能;又或是法律訂明只允許一夫一妻制度,但很多人都擁有多於一個妻子或丈夫、執法機構卻沒有對這些違法者提出檢控或懲治。嘉恩常常提出這些大家早已經習以為常的問題,她的父母與朋友很多時都回答不來,漸漸也再懶得去答她。可是嘉恩的天性實在太過喜歡發問,因此當她這天看到電子月曆上偏偏沒有出現六月四日時,就忍不住向煮飯中的母親問:
⠀
「為甚麼六月三日之後會是六月五日呢?」
⠀
嘉恩的母親正專注於烹調有機無流感豬扒,對自己女兒又發作的每事問隨口回道:「一向都是如此嘛。」
⠀
一向?嘉恩不信母親的敷衍,將電子日曆調較到五月,見到有五月四日,再較去七月,也有七月四日,但偏偏六月就沒有四日,這很不正常。
⠀
「一二三四五六七,六月三日之後應該是六月四日才對呀?」嘉恩說。
⠀
母親莞爾,將烹熟的有機無流感豬扒放到電子恆溫飯盒裡,對她說:「六月三日跟六月五日已經是法定的公眾假期了,再加多一天六月四日假期,你是想連續三天不用考試吧?」
⠀
「媽!」
⠀
「好了好了,媽媽也不知道為何會這樣。」母親摸摸扁著咀的嘉恩臉頰,將電子恆溫飯盒鎖上密碼鎖,又對她說:「但幾千年來月曆都是沒有六月四日吧?你不如待會回學校向老師請教看看。」
⠀
嘉恩不情不願的接過電子飯盒,拿起手板般大的書包,出門上學去。
⠀
在乘搭地下電梯回校時,嘉恩用書包連上互聯網絡,到「大中百科事典」搜尋關於「六月四日」的資料,豈料事典竟然搜尋不到半點相關資訊,這讓嘉恩心裡更加起疑 —— 過去她試過在事典隨便輸入一個人的名字搜尋,雖然事典沒有找到她想要的相關資訊,但不相關的資訊起碼也超過一千條;現在卻一條不相關的項目都沒有,這不是很奇怪嗎?
⠀
「怎麼在皺眉呀,小恩?」
⠀
鄰邊的電梯忽然傳來聲音,嘉恩沒有回頭,就知道是自己的死黨小敏。
⠀
「小敏,你有沒有想過為何日曆會沒有六月四日這一日?」
⠀
她邊說邊再次輸入「 June 4 」搜索,依然是零搜尋結果。
⠀
「六月四日?有這一日的嗎?」小敏嘟咀。
⠀
「每個月都有四日這一個日子,但偏偏六月沒有四日,你不覺得奇怪嗎?」嘉恩放下書包。
⠀
「我只擔心每個月的三十一日幾時到來。」小敏吐舌說,每月的三十一日是法定的兒童節,所有十八歲以下的未成年人都可以到一處叫「歡樂天地」的樂園盡情玩耍,即使本來在受罰的小朋友亦能夠於這天獲得赦免。
⠀
「你就只顧著玩。」嘉恩嘆氣,雖然她也喜歡「歡樂天地」的無憂無慮,那裡是難得讓她不會每事問的地方。
⠀
「聽說以前是沒有兒童節這個節日呢,直到世界政府成立之後...... 」小敏在旁邊繼續嘩啦,但嘉恩沒有用心細聽,她們已經回到屬於她們的教室,在各自的座位坐下。
⠀
「今天要考歷史科呢……」
⠀
嘉恩打開書包,螢幕傳來了歷史科的考題:「試詳述世界政府之起源、成立之經過、以及成立後為世界所帶來的發展與前景。」,嘉恩記得自己在「大中百科事典」看過這條欄目,於是就連上互聯網搜索相關資料,左拼右貼一會,十五分鐘就完成了考題。在覆檢一次文法沒有出錯之後,她按下「交卷」鍵、比法定完卷時間早了五分鐘。回頭望坐在後方的小敏仍然皺著眉作答,嘉恩猜她大概不知道可以在「大中百科事典」找到答案。
⠀
走出課室,嘉恩乘電梯到圖書館,打算搜尋館內珍藏的電子古籍、繼續發掘有沒有關於「六月四日」的資訊。可是她呆坐在圖書館半小時,翻了「美利亞小百科」、「羅馬辭典未修訂版」甚至記述了二千多年野史的「新地球史」,都依然查不到半點資料,每本古籍就只會對她說,根本沒有「六月四日」這個日子。這是圖書館第一次讓一向好奇的她嚐到了失望。
⠀
「為甚麼一個人留在圖書館呢?」年輕的王老師帶著笑,坐在嘉恩的對面。
⠀
「王老師,圖書館原來也有解答不出的問題嗎?」嘉恩抱怨,即使王老師是她少有喜歡的老師。
⠀
王老師「哦」了一聲,笑說:「那也要看是甚麼問題啊。」
⠀
「為甚麼六月會沒有四日這一天呢?」嘉恩苦著臉。
⠀
「怪不得,你的問題在最初就已經問錯了。」王老師莞爾。
⠀
「問錯了?」嘉恩愣住。
⠀
「因為本來六月就是沒有四日呀,從創立公曆的時候開始,六月份就只有二十九天,沒有四日這一天的。」王老師解釋。
⠀
「可是,王老師你不覺得奇怪嗎?」嘉恩有點不服氣,但仍然保持尊敬的語氣說:「其餘的十一個月都有四日這一日啊,偏偏六月沒有,這是當時創設公曆的人出錯了嗎?」
⠀
王老師呆了一下,但之後又笑著反問:「那每個月都有三十日這一天,為甚麼偏偏二月就沒有三十日?」
⠀
這次輪到嘉恩呆住,過了好一會才懂得說:「是因為方便計算曆法的緣故,所以就..... 刪了二月的二十九及三十日吧?」
⠀
王老師繼續笑問:「那為甚麼不扣除一月的三十一日及三月的三十一日呢?」
⠀
嘉恩回答不來。
⠀
「所以有時有些事情,本來就是不能解釋的。」王老師這樣作結,看看手錶,又說:「嘉恩你不是要考數學科的試嗎?應該夠鐘了吧?」
⠀
嘉恩一嚇,連忙向王老師道別、趕回課室進行數學科的考試。這天要考的是「排比定律」,但她根本就集中不了精神應考;雖然她有到「大中百科事典」找到題目的解法,可是看著考題的一大堆數字,她對王老師的解釋就更加不能釋懷 —— 二月沒有了的是最末的兩天,為甚麼六月偏偏沒有第四天呢?
⠀
結果到了完卷時間,嘉恩都未能答完所有算題。王老師也彷彿知道她的心事,又在課室門後向她招手。嘉恩沒精打采的走上前,王老師就笑道:「不如我跟你一同去請教歷史科教師吧?我知道你一定仍然在想著那個六月四日的事。」
⠀
嘉恩臉上一紅,但還是喜孜孜地跟隨王老師乘電梯到歷史科教師的教室、向薄有名氣的歷史專家楊老師請教。楊老師是位年過七十的長者,但他保養得宜、看上去就只像四、五十歲;在聽了嘉恩的疑問後,楊老師就只是一直在沉思。
⠀
「是不是有點妙想天開呢?」王老師見楊老師沒有作聲,以為嘉恩的問題真的有點笨,於是就笑著打圓場。
⠀
楊老師搖了搖頭,緩緩說:「也不完全是,只不過這是一段很久遠的野史了,久遠到沒有確實證據、幾乎被認為是傳說。」
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「到底有多久呢?」嘉恩忍不住問。
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「大概差不多是五千年前的歷史了。」楊老師又搖頭,然後到教室一旁的電子書櫃按鍵,書櫃彈出一張四方板。「那時候有三個自稱為神的人,說當六個月亮及四個太陽同時升到天空的時候,就是他們統治世界之時...... 」
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「那三個不是聖經所記述的魔鬼使徒嗎?」信奉天主教的王老師冷笑。
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「就是了。」楊老師點頭,看著四方板上的文字,說下去:「傳說他們最後都被自己的部下出賣、甚至暗殺;於是後來有些愚夫愚婿穿鑿附會,六月四日就是惡魔復活的日子。其實那時連最初的儒略曆都未出現,又怎會可能有六月四日這個日子呢?」
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「老師,那會不會是因為這個緣故,所以公曆就沒有了六月四日呢?」嘉恩試著問。
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「當然不是,當然不是。」楊老師莞爾,彷彿真的覺得這是一個可笑的問題。
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「那為甚麼會沒有六月四日呢?」嘉恩又不服。
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「歷史沒有記載。」楊老師冷冷的,「所有關於製訂儒略曆與公曆的文獻或史料也沒有特別解釋。」
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嘉恩不作聲了。在旁的王老師發現到氣氛有點尷尬,於是連忙拉著嘉恩向楊老師拜別。
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放學後,嘉恩沒有乘搭地下電梯,一個人踱步回自己的家。這個時代的人都不喜歡走路,街上沒有幾多行人,但嘉恩也不害怕,只是不斷重覆唸著「六月四日」。
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「小妹妹,你想知道六月四日的事嗎?」
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嘉恩一呆,循聲音的方向望去,只見一個乞丐瑟縮在街的角落,一頭灰髮隨微風亂散。
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「你……知道六月四日?」
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乞丐微一點頭,抬起了臉,這讓嘉恩不由得嚇了一跳;只因乞丐的臉上佈滿了皺眉,已經很老很老了,嘉恩有好久沒有見過這麼蒼老的人。乞丐忽然又大聲的笑,但嘉恩只覺得他的笑聲很難聽;乞丐啞著聲音嚷:「六月四日,是我們永遠不會忘記的一日!」
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「……不會忘記?」
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乞丐瞪著嘉恩,大吼:「這是我們的民運、是我們爭取自由的……你說我們怎麼會忘記!」
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嘉恩被他吼得混身抖震,這時她方想起這條街上除了她自己外、再沒有其他途人;但她還是大著膽、去問乞丐:「你說的……『文運』,是指甚麼運氣嗎?」
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「運氣?」乞丐的反應更大,顫抖著站起身來,身子比嘉恩還要高出兩個頭;他又再次大吼:「你說甚麼運氣?你說我們是靠運氣嗎?」
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但嘉恩沒有回答,她已經拔足狂奔離開。幾經辛苦回到家裡,母親剛巧不在家,於是她就躺在大廳的沙發上歇息;混混噩噩的,又想起自己今日不停的探究「六月四日」,實在超出了腦袋的思考極限,最後還要被那個瘋丐這麼一嚇,這刻她真的覺得很累了。可是嘉恩仍是有一點不能心息,於是又打開書包,到「大中百科事典」搜索「文運」兩字。
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結果是,理所當然的出現了一大堆沒有相連關係的「文運」資訊,嘉恩不禁苦笑了。這時她的父親下班回來,見自己的女兒一臉苦惱看著書包,心裡忍不住疼惜,問道:「怎麼了?讀書辛苦嗎?不如先休息一會吧?」
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嘉恩抬頭望著父親,想起自己的父親是政府的公務員,於是問他:「爸爸,為甚麼我們的曆法會沒有六月四日?」
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父親一呆,原來自己的女兒只是又為一些怪問題而苦惱,不由得失笑一下,答:「我也不知道,而且這是已經沿用幾千年的曆法了。」
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「政府裡面沒有這一天的記錄嗎?」嘉恩不死心。
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「又怎會有呢?本來就沒有這一天嘛。」
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嘉恩賭氣:「政府真沒用。」
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父親聽見了,不由得正色向嘉恩教訓:「現在的世界政府已經很好了,自從統一地球後,所有的地方都發展得更加繁榮呢……」
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「是了、是了。」
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嘉恩敷衍,她一向不喜歡父親這種性格,於是就乾脆躲回自己的睡房。這時睡房內的電話響起鈴聲,嘉恩應了一聲,房內中央立即顯示了一個男生的立體顯影,笑道:
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「嘉恩?」
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「阿立?」嘉恩喜道,阿立是她一直心儀的男生。
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「在做甚麼呢?」阿立笑著問。
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「唔……在想著為何會沒有六月四日囉。」嘉恩唸道。
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「六月四日?」阿立揚一揚眉。
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「你知道為甚麼嗎?」
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「嗯……我曾經在 EURT 的搜尋引擎內看過相關的條目呢。」
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「咦,真的嗎?」嘉恩喜出望外,同時間立體顯影旁邊多了一個圓形的光屏。
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「我一向跟你說、EURT 的搜尋能力是最優秀的嘛,至少比 google 98 要快。」阿立搖頭笑道,嘉恩臉紅,又看見光屏列出一段關於「六月四日」的文字。原來公曆沒有「六月四日」這一日,是源自古時宗教的一個傳說,當時一位西方先知向信眾說六月四日是一個不祥之日,因此後來有份參與制定曆法的後人就棄用六月四日、並將六月三日及五日定為假日,讓大眾上街狂歡慶祝,避免邪惡乘虛入侵……
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「想不到楊老師的說法是真的呢。」讀完後,嘉恩失笑。
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「楊老師?」阿立問。
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「這天我向他請教,他也有提過類似的傳說,可是他自己卻不相信。」嘉恩的眼神有些不屑。
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「他這一輩人就是喜歡讀死書的喇。」阿立和應,又問嘉恩:「怎樣喇,現在你的疑問終於完滿解決了吧?」
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嘉恩點點頭,看著阿立的笑臉,只覺得這一刻真的心滿意足。
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「報告長官。」
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國家安全情報局國民資訊分析部隊員 9527 舉起右手,情報局長官 0028 來到他的身邊,問:「9527 ,怎樣了?」
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「長官,國民編號 3710 2675 9001X 、鍾嘉恩對『六月四日』的探索終於中止了。」9527 匯報。
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「中止的原因是?」0028 沉聲。
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「她接觸到我們預先安排的EURT 的條目、並由國民編號 1826 0987 2637A 郭子立輔助,最終確認眼前的資訊為真,於是停止繼續探索。」
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「不錯。」0028 嘉許,細看 9527 工作檯上所列出的相關資訊,又說:「那個乞丐也是時候送去老人院吧?」
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「是,已經交由國民運送部交運。」
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「嗯。」0028 點頭,再看了其他資料一會,最後拍拍 9527 的肩膊,說:「繼續好好觀察這個鍾嘉恩,直到她進入『歡樂天地』為止,知道嗎?」
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「是!」
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9527 大聲應道,這是長官特別指使他的任務,令他倍感光榮。其他的分析部隊員看到長官如此重視 9527 ,心裡也只能恨得牙癢癢。
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0028 在分析情報局逗留了一會,就乘搭地下電梯離開。臨別前他吩咐高級分析部隊員替他注意 9527 的一切行動,若有任何異動必須立即向他本人匯報。
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然後十五分鐘後,0028 來到了世界政府總部的一個極密會議室。
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這天所有世界政府的實質領導人將會雲集這裡,開一個關乎世界政府命運的重要會議。
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會議的主題是,取消公曆 8 月 10 日這個日子的一切存在。這次他們打算用五十年時間。
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羅敷丈夫 在 葉慶元律師(葉狀師) Facebook 的最佳解答
#泰北孤軍
最近,黨產會百般刁難 中華救助總會 與 國防部 合作在泰北為國軍興建 #忠烈祠 的計畫。
黨產會的委員公開在媒體說,如果同意這個計畫,會幫助救總洗白,對黨產會認定救總為附隨組織的訴訟不利。
我對黨產會的政治算計不齒,也不想再和他們打口水仗,只想分享這個泰北孤軍的故事,請大家想想,政府該不該為始終效忠中華民國的泰北孤軍建這個忠烈祠?
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父親離開41年回家時,母親在村口等了他一天
王豪(止戈出品2018-08-10)
從曼谷飛往昆明的航班上,父親王畏天不停地向我念叨大媽做的破酥包,有多麼多麼的好吃,甚至口水都快流下來。我轉而問了他一個非常尖銳的問題:“我母親和大媽,你生命中的兩個女人,你覺得誰更好一些?”
“你的母親只是守婦道,和你的大媽相比,一無是處!”父親的回答就像他的性格一樣,簡單粗暴。那是1991年春節,父親帶著我和弟弟阿旭從泰國美斯樂回老家雲南鳳慶探親。
41年前的春節,身為國軍中校的父親,撇下他的原配妻子,也就是我的大媽,還有兩歲的兒子,隻身逃往緬甸,在那裡認識了我的母親。之後,他們前往泰國北部定居,相守一生。
父親的回答,並不出乎我的意料。
1949年12月9日,盧漢起義。在我所學的歷史中,稱之為叛變。
3個月後,中國人民解放軍進駐昆明。解放軍進城那天,已經脫掉軍裝的父親雙手抱在胸前,站在人群中靜觀這個城市新的主人。
父親畢業于黃埔軍校17期步兵科,後服役於滇軍,至1949年已是中校副團長。
若干年後,當父親向我講述這段過往時,我問他:“你覺得你們厲害,還是解放軍厲害?”
“他們穿得很破,但是步伐非常整齊。”父親沒有正面回答。
邁著整齊劃一的步伐挺進昆明城的解放軍,讓父親感到不安。他調轉身,連夜趕回鳳慶老家,跪在地上對我的奶奶說:“娘,我要去緬甸找三哥,避避風頭,等形勢緩和就回家。”那時,三伯在緬甸跑馬幫生意。
在泰北的華人中,至今還保留著一個傳統,兒子出行或歸家時,都要向母親跪著告別或請安。奶奶沒有作聲,起身去給父親收拾行李。父親的妻子,則把家裡的破酥包,全都裝進了父親的背包裡。
妻子是大他一歲的表姐,青梅竹馬。他們的孩子王磊,僅有兩歲。
那年,父親只有29歲。
父親四兄弟,大伯是舊政府的鄉長,二伯畢業于上海大夏大學,在省立昆華中學任教,三伯跑馬幫生意,常年在緬甸。
1949年,對於富甲一方的王家來說,是命運的分水嶺。
父親一路向西,再向南,翻山越嶺,在湍急的江水中拼命游向緬甸。到緬甸後不久,父親輾轉找到三伯,跑馬幫的三叔,早已不敢回老家。軍校出身的父親並不是做生意的料,時值李彌在緬北招募國軍殘軍,試圖反攻,父親當即前往,任上校副司令。
父親逃離家鄉不久,土改運動在全國迅速展開,曾在舊政府任過鄉長的大伯,是重點運動對象,他也在一天深夜,跪別母親,出走緬甸,遺下大伯母和4個幼子。
1953年,我的二伯也來到了緬甸。在此前,他被關押了3年。關押期間,他的兩個女兒夭折。被釋放後,依然處於被監視狀態。在一位同族人的勸說下,有一天趁著外出趕集,慌張逃走,未及告別家人。到此,王家四兄弟,全部在異國相聚。
王家的下一代,亦未能逃脫流亡的宿命。
大伯的大兒子,作為王家的長子,後來也逃到了緬甸,加入李彌的反共救國軍。在之前,他和奶奶、大伯母等三代人一起,被同台批鬥。他們的身上,有太多的壞人標籤,地主家屬、逃亡家屬、境外國軍家屬等等。
當兒孫們為了活命一個個地逃亡異國之後,只剩一幫婦孺,守著王家偌大的老宅,獨自承受整個家族之於歷史的苦難。奶奶只能整日以淚洗面,他的兒孫們,為了活命接連逃往異域,至她死,都沒有回家。
我叫王豪,1961年出生于泰國北部的一個小山村美斯樂。
在此前,我的父親一直在緬甸,試圖和敗退于此的國軍部隊一起反共救國。這一年,中國人民解放軍在緬甸政府的請求下,入緬追剿國軍部隊。後者不得不跨越湄公河,移師泰北。
父親的其他3個兄弟,也隨軍來到泰國。大伯和三伯繼續做生意,二伯後來成為美斯樂興華中學小學部的校長。
父親撤退泰國時,我還在娘的肚子裡。我的母親叫黃淑卿,1958年由雲南施甸前往緬甸,加入父親所在的第五軍政訓處。母親不僅模樣清秀,還寫得一手好字。
那時,父親已經離開雲南8年了,他知道,回家已遙遙無期,37歲的他渴望重組一個家庭。父親托人去做母親的工作,希望娶她做老婆。母親不為所動,態度非常冷淡。母親的態度,讓身為師長的父親不解,他瞭解後才得知,母親曾經有過家庭。父親並不介意,經過不懈努力,母親終於對父親有了好感,嫁給了父親。
一個英俊瀟灑的高級軍官,一個讀過書的大家閨秀,他們的結合,讓無數人羡慕。
父親的四個兄弟,先後在異國再娶,這是一個無奈且充滿愧疚的選擇。留在雲南的四個妯娌,一輩子都沒有改嫁。即使在後來,他們得知自己的丈夫有了新的家庭,他們依然在默默堅守和等待。
意想不到的是,1970年的一天,我的母親突然精神失常!這是一個讓整個美斯樂的人,都無法理解的事情。
20多年後,當我回到雲南,知道了母親的身世,我終於明白,母親為什麼會這樣。
父親的這一段婚姻,過得並不幸福。
父親常年駐紮軍營,母親只能自己帶著四個孩子生活。她是個極度缺乏安全感的人,每到天黑,她就要把門牢牢鎖好,檢查數遍才放心。然後點上蠟燭,輔導幾個孩子功課。
母親對我們非常溺愛,每當脾氣火暴的父親訓斥我們時,她便挺身而出,但每次,總是吵不過強勢的父親。絲毫不懂溫柔的父親,從來不會安慰母親。
1970年,在緬北駐防三年的父親回了家,我們一家六口終於團聚了。
有一天,全家外出做客時,母親坐在角落裡一語不發,對所有人的問候都不搭理。就在人們埋頭吃飯時,只聽“叭”的一聲,手中的筷子被她折成兩截,整桌賓客愕然。
她開始一個人喃喃自語,說著別人聽不懂的話,一會哭,一會笑。
從那以後,母親的行為愈發異常。
1970年,對於駐紮泰北的孤軍來說,正處於生死邊緣。
在此前,他們多次被泰國政府圍剿,之後又為了搶生意和毒梟坤沙打仗。這一年,泰國政府邀請他們做雇傭軍,替政府收復被反政府武裝佔領的地盤,成功後就可成立政府承認的“泰北民眾自衛隊”,獲得長期居留權。
為了更多人的生,只能讓有的人去送死。
身居副軍長的父親,幾乎天天開會研究打仗事宜,照顧母親的事交給了傳令兵。
而母親不願呆在家裡,她經常有些疑神疑鬼地對我們說,父親在外面有了女人,不要我們了。父親深夜開會到很晚,她就帶著最小的弟弟,守在門外,一坐就是幾個鐘頭。開完會的父親看到這個場景,氣得扭頭就走。
有人建議把母親送往精神病院,父親卻沒有同意。他擔心精神病院會讓母親感到害怕。1972年夏天,父親帶全家到清邁度假,他希望換個環境能讓母親的病好轉,但足足呆了一個月,沒有任何效果。
我曾問父親,他會不會像母親說的那樣,拋棄我們母子。
“不會的!”父親的回答,堅毅中,透露著一絲感傷。1950年,他曾拋棄了自己的妻兒。
母親嫁給父親的那一年,雲南廣播電臺開設“對境外國民黨軍殘部廣播”,經常會出現父親的名字,呼籲父親回歸祖國的懷抱,全家老小等候他們回家。
每次聽到這樣的廣播,傳令兵就會默默地退去。父親先是一個人躲在房間裡流淚,之後就是摔東西。對於流落異域的老兵,幾乎每一個人都有過面向北方默默流淚的經歷。同樣,在他們的家鄉,他們的母親或妻子,也是在夜深人靜時,獨自流淚。
等到1961年我出生時,父親四兄弟終於和雲南的家人取得了聯繫。大媽不識字,回信是由哥哥王磊寫來的,每一封信的末尾都會問:爸爸,您什麼時候可以回家?
我能感受到父親的歉疚和無奈,他所能做的,就是盡最大能力,寄錢和物品回去。
那時候,中國饑荒遍野。父親寄回去的有炒麵、布匹、炒鍋、紅糖、衣服等等,對於家鄉的親人來說,雪中送炭。
1962年,家鄉來信,奶奶去世了。父親四兄弟相約在泰北的高山上,向北長跪,痛哭流涕。
到了“文革”,雙方的聯繫中斷。直到1978年後,通信再次恢復,也比較頻繁了。只是信的內容,再也不提回家的事情。漫長的“文革”,讓大家有了生疏且絕望。
在此前,父親曾有兩次撤台機會,但他沒有走。在這件事情上,他們四兄弟一致認為,雖然泰國也是異鄉,但離家要近得多。
他們一生,都沒有放棄回家的想法。而現實,卻讓他們成了一群寄居異國的孤兒。
因為父輩們的犧牲和努力,讓我們第二代有了新的出路。中學畢業後,我前往臺灣念書,後到日本工讀。直到1990年回到美斯樂,沒想到父親劈頭就說:“你還回來做什麼,看看這個家,一點溫暖都沒有!”
我有些訝異地看著父親,曾經身為副軍長的父親,腰背依然挺直,但頭髮已經花白。那時,泰北的孤軍已經放下武器,解甲歸田。傳令兵早已四散而去,父親的眼裡,滿是落寞。
我看到瘋了的母親,一個人關在屋子裡,正是盛夏,身上卻層層疊疊穿了五六件衣服,頭髮很髒,身上滿是異味。沒有人能碰她,即便是自己的丈夫。
看到我回來,母親終於有了一絲笑容,但很快,她又對著空中喃喃自語。這個場景讓我非常難受,我決定留下來,守著年邁的父母,不再漂泊。
就在我回到美斯樂的這一年,家鄉的一封來信,讓父親有些激動。信是家裡的一位長輩,受父親的兒子王磊之托寫來的:
王磊和他娘,希望你們能回家看看,王磊擔心你不相信他,就托我來告訴你,黨和政府非常開明,政策也很明確,你們回來不會有事的,我用人頭擔保。
歷史的恩怨漸漸遠去,親人們的相聚,終於可期。
第二年春節,父親帶著我,從曼谷乘坐飛機,開始前往已經離別整整41年的家鄉。
因為通訊條件所限,抵達昆明後,父親才向鳳慶的家人發去電報:
吾已抵昆,攜子豪、旭同返
在決定回家之前,母親清醒的時候,父親曾徵求她的意見,想不想回中國看看自己的父母和姐妹,那時,外公和外婆還都在世。母親猛地站起來,冷冷地答道:“不回!”然後扭頭走開。
這讓我十分不解。
這個謎底,直到我再一次回到雲南探親時,才一點一點剝開。
從昆明出發,坐著汽車在山裡顛簸了一整天,終於抵達鳳慶老家。
時年70歲的父親西裝革履,手拄文明杖,我和弟弟阿旭穿著牛仔褲,一身時髦打扮。那時的鳳慶,到處都是低矮的破房子。
回家的父親,如是異鄉人。
就在村口,遠遠的,望見一個穿舊式藍布衫的老太太站在一棵大樹下。走到跟前時,父親突然站住,他抬起右手指著老太太,用濃重的鄉音問:“你施玉蘭嘎?”
“哦,回來了嘎。”老太太答非所問地說,然後指著我和弟弟說:“哪個是阿豪?哪個是阿旭?”
那竟然是大媽。
在回家的路上,我曾無數次地想,父親和大媽見面時,一定會緊緊地擁抱在一起。沒有想到,在離別41年之後再見時,他們夫妻之間,竟是如此地克制。41年的苦難、分離,以及思念,似乎並不存在。
後來才知道,大媽為了等我們回家,就這樣在村口的大樹下,站了整整一天。父親走到大媽身邊,用手拍拍她的肩膀說:“你辛苦了,你辛苦了!”這對曾經竹馬青梅的表姐弟,就這樣說著話,往家走去。
父親的舉動,就像一位長官在嘉獎勝利歸來的士兵。
一起前來迎接我們回家的,還有父親的兒子王磊。那個曾在信中無數次呼喚爸爸回家的孩子,已是43歲的中年人。而真正與爸爸相見時,他卻難以開口,一直淡淡的,沒有多少話可講。
“小時候一直期盼著爸爸回來,別人都有爸爸,我為什麼沒有。後來長大了,我和媽媽已經不抱希望了。現在突然回來了,就像是做夢一樣,很奇妙的感覺。”王磊很平靜地說。
兩歲時父親就離開了他,但他多年後竟然記得一個畫面:他耍賴皮哭,父親打了他屁股兩下。父親教訓他的畫面,是他對父親唯一的記憶,如同珍寶一樣,深藏於心,一輩子都捨不得忘。
大媽在接到電報時,就開始準備了。他們刷白了房子,從鄉政府借來新的被褥。父親被安排和大媽同住一屋。
我、弟弟阿旭以及哥哥王磊,住在兩位老人的樓上。夜深人靜時,月光從房頂的窗戶照進來,不隔音的木板下傳來父親和大媽忽高忽低的談話聲。
我們同父異母的三兄弟沒敢說一句話,側耳細聽,只聽得父親翻來覆去說了好多遍,“你辛苦了,對不起你們了。”
大媽則說:“你也不容易。”
每當談話陷入沉默時,父親就搶著說:“過去的事你就不用再說了,你們受的苦我都知道。”
強勢的父親,沒有給大媽任何傾訴的機會。
我也終於明白,當我問母親和大媽誰更好時,父親為什麼會說母親“一無是處”。大媽對他的包容和體貼,以及作為一名傳統婦女的隱忍,是沒有人可以相比的。
父親的歸來,讓大媽高興不已,她忙前忙後張羅飯菜,待全家人落座,她卻不肯入座,我去請了好幾遍,她才悄悄告訴我:“我從嫁給你父親那天起,從來沒和他同桌吃過飯,這是老規矩。”
在準備的飯菜中,有一盤浸著油漬的破酥包,異常醒目。
回家的父親,還偶遇了當年隨他征戰的勤務兵,勤務兵頭髮花白,穿著一雙破舊的解放鞋,他正步走到父親跟前,敬了一個禮:“長官,您回來了!”
多年後,父親提到這個場景,依然是唏噓不已。
留在雲南的勤務兵,也曾遭受了歷史的折磨,但畢竟,他可以留在家鄉,與親人廝守。
父親回家的另一件事情,就是修建王氏宗祠。作為鳳慶最大的地主,王家的五代祖墳曾在文革時被毀。當地統戰部門為了向曾為副軍長的父親示好,專門撥了一塊地用於修建宗祠。
在奶奶的墳前,父親長跪不起。兒子出行或歸家時,都要向母親跪著告別或請安,這是在泰北華人中,至今還保留著的一個古老傳統。當年離家時,他告訴母親,他只是出去避避風頭。這一去,就陰陽兩隔。
在40年前,父輩們流離於緬北的叢林中,居無定所之時,留在家鄉的婦孺們,也在驚恐度日。
王家的祖宅曾是一個有著數十間房屋的青瓦四合院,依山傍水,每扇門窗都雕刻著精美的花紋,四合院前的操場有半個足球場那麼大。
1950年後,十多名家丁全部被遣散,只剩一個啞巴忠實地守在奶奶身邊。再後來,所有人被趕出老宅,王家巨大的木門被貼上封條,財產全被沒收,家人住進一間陰暗潮濕的茅草屋,常常吃了上頓沒下頓。半年後,茅草屋倒塌了,他們只能在村子裡挨家挨戶借住。
“母親被批鬥時,我只能站在旁邊,邊看邊哭,等批鬥的人走後,才趕快扶起母親,去找點草藥來給母親敷在傷口上。”王磊說。
因為父親的身份,小學畢業後,王磊就不能繼續念書了,開始和母親在生產隊幹農活。
曾為地主婆的奶奶,1962年去世時,連一口像樣的棺材都沒有。心底善良的她,把很早前就給自己準備的楠木棺材,用來給那個忠誠的啞巴家丁下葬了。
她的靈前,沒有一個可以披孝的兒子。
流落泰北的王家四兄弟,其中大伯和二伯,在1990年前政策明朗之前,已經去世了,埋骨異域。
我的三伯在看到父親平安返回泰北後,相信了共產黨沒有說謊,也在一年多後回家探親,遺憾的是,見到了我父親的三伯母卻沒能等到丈夫回家,在一年前去世。
等了一生,就如此錯過。
王家四兄弟,只有我的父親,見到了自己的原配妻子。他們相見兩年後,大媽也去世了。
1993年年底,我成家了,母親的瘋病愈發嚴重,為了探究母親的過去,我帶著新婚妻子前往雲南施甸,去看望外公外婆。
我和妻子去看望外公外婆。
從外婆的口中,我知道了母親的秘密,那是一段連父親都不知道的經歷:出身大戶人家的母親,年輕時曾嫁給當地一青年教師,50年代因丈夫成分不好,夫妻被關進監獄,幾個月後母親以“陪殺”的身份目睹丈夫在眼前被槍斃,5歲女兒也在監獄受了驚嚇,夭折。
母親被釋放後,外婆集齊家裡所有的錢幣,捆在母親身上,送她跨過怒江,逃往緬甸。
我終於明白,母親的一生,為什麼會活得那般驚恐,那麼不安!她對我們的溺愛,對父親的猜疑,都是害怕再失去。可惜,行伍出身的父親,一生也沒能明白母親內心的創傷,他甚至連母親的生日都不知道。終於,母親再也無法承受歷史的沉屙,在恐懼和不安中,徹底迷失了,成了父親口中“一無是處”的妻子。
1994年,我們邀請二伯母前往泰國團聚,那年,二伯已經去世整整20年了。令人遺憾的是,二伯母臨走都沒有去二伯的墓地。她到死,都沒有原諒自己的丈夫。
他們是王家四兄弟中,唯一自由戀愛的。關於他們的悲歡離合,他們的兒子,會在另篇泰北系列故事中講述。
2005年,我的父親和母親先後離世,這對陰差陽錯走到一起的夫妻,一輩子過得都很分裂。他們的內心,各自都有著歷史的創傷,卻相互沒能理解和寬慰。
十年後的2015年,我的哥哥王磊來到泰北美斯樂,我帶他去了父親的墓地。他跪在父親的墓前,就如同他那年見到父親時一樣,依然是淡淡的,沒有多少話可講。
就像做夢一樣。