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維新十傑 在 偽學術 Instagram 的精選貼文
2021-09-10 22:33:31
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恭喜復版(開版),由於從黑船來航之前到明治維新都可以是本版之討論範圍,就先放上
一篇文好了,對維新十傑之一的廣澤真臣的介紹。
廣澤 真臣(ひろさわ さねおみ、天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日
(1871年2月27日))為日本的武士(長州藩士)、政治家。初名為直溫。以障岳、向山等
為號。維新十傑之一。賞典祿與大久保利通、木戶孝允同樣為1800石,是長州藩的掌旗手
。
經歷
長州藩士・柏村安利之四男(幼名是季之進)。弘化元年(1844年)12月,成為長州藩士
・波多野直忠之婿養子,稱為波多野金吾。
於藩校明倫館學習,嘉永6年(1853年)黑船來航時作為大森台場之警衛而出差。安政6年
(1859年)參與籌畫藩的軍政改革等,作為尊攘派而活躍。其後,與藩之世子毛利定廣共
同入洛,在桂小五郎、久坂義助之下,作為京都的辦事人員而努力。
元治元年(1864年),隨著長州藩發生禁門之變、下關戰爭、第一次征長等事件,藩內的
政權鬪爭中主戰派(主要是正義派成員)敗給了恭順派(主要是俗論派成員)的結果,波
多野亦投獄,然而因為不是正義派而免遭處刑。慶應元年(1865年),隨著高杉晉作、伊
藤俊輔、山縣狂介等正義派發動之政變,正義派重新掌握藩之實權,作為中間派的波多野
被任命為政務役而重新參與藩政。同年4月4日、依照藩的命令改名為廣澤藤右衛門,又在
翌月的5月6日改名廣澤兵助。
慶應2年(1866年)8月末的第二次征長講和交涉中,與幕府側的勝海舟於安藝嚴島進行交
涉,此外,亦與坂本龍馬、薩摩藩的五代才助會談而作成「商社示談箇条書」,凡此種種
,作為木戶的代理人與同僚努力奔走。於慶應3年(1867年)10月,與大久保利通等人共
同對討幕密勅的降下盡力,使倒幕活動推進。
維新政府成立後,擔任参與、海陸軍務掛、大總督府參謀。其後,歷任內國事務掛、京都
府御用掛、參議。戊辰戰爭中,與米澤藩的宮島誠一郎會談,為會津藩「歸正」作周旋而
提出建言等,與木戶同屬主張對會津寛大處置之寬典論者。明治2年(1869年),作為王
政復古的功臣,與木戶、大久保同被賜予永世祿1800石,擔任民部大臣、參議之要職。
明治4年(1871年)1月9日,於東京府麹町富士見町私邸之宴會後的深夜,被刺客所襲撃
暗殺。享年39。死後追贈正三位。
明治12年(1879年)對維新之功行賞,廣澤家與先前亡沒之木戶、大久保的遺族共同被列
為華族。由於當時的華族限於舊藩主與公家,於華族令制定以前,除此3例外,並沒有士
族昇為華族的例子。明治17年(1884年),嫡子金次郎被授與伯爵地位。
『廣澤真臣日記』與木戶、大久保之日記皆作為幕末維新史的一級史料,而有著高度評價
。
暗殺事件(下面的描述日文wiki編寫者特別注明是”獨自研究”,信憑性有待考證)
依照法醫的檢驗,傷口有13處,咽喉處則有3個突刺傷口。犯行後,處於同室中的小妾只
有一些被捆縛之輕傷,現場狀況有許多不自然之點。橫井小楠、大村益次郎、接著是廣澤
真臣,持續發生維新政府要人被暗殺的事件,對於廣澤有著深厚信賴的明治天皇甚至發佈
詔書:「必定要將賊擒獲。」督促對犯人之逮捕,有著這樣的異例。
廣澤家的管家與小妾受到苛烈之搜查,結果發現兩者之私通與將廣澤家之金錢私自流用的
事實。1875年舉行陪審員列席之裁判,然而結局將兩者以無罪釋放。
當多數人都認為此暗殺事件將成為迷案時,只有木戶孝允繼續要求督促搜查。
關於搜查,小河一敏、雲井龍雄、以及其殘黨等共80餘名之暗殺嫌疑犯被調查,然而仍不
能確定行兇之人,至今仍真相不明。
由於為未解決之懸案,對於暗殺行兇者與其黑幕有著諸多說法,一般的說法是對維新政府
懷有不滿之舊幕府側不平士族與舊幕府軍殘黨所為。
另外也有著說法,同為長州出身之高官木戶與廣澤關係不睦,被木戶及支援他的大久保等
人暗殺之黑幕說。然而,當時政府的重要成員(木戶孝允、大久保利通、西鄉隆盛、板垣
退助、山縣有朋等人),一方面為集結御親兵於東京以對廢藩置縣做準備、一方面為進行
各自之藩政改革,將東京託付予參議廣澤真臣等人而各自前往自己之藩、京都、大坂等地
,實在難以認為廣澤與木戶等政府高官有著不睦,因而企圖將廣澤殺害。(附帶地,2年
前被襲撃而身亡之同樣長州藩出身的大村益次郎,其遇害則與薩摩及長州的不平分子有關
)。
以上是日文WIKI介紹,若有人能幫忙校對無誤後更新中文WIKI是再好不過了。
個人看法:
不相信木戶和大久保等人的黑幕說,太天馬行空了,不曉得從哪冒出來的,基於他是個會
在日記裡真情流露的人(什麼長痔瘡呀、撿到小嬰兒呀、和松子以及家人們一起年末大掃
除呀、森有禮很無禮呀w…),不像大久保預測到後世的人會看他日記而就算寫著也端著
,而木戶留下了這樣一篇日記
=======
十時前神戸に着す 上陸所へ長門屋より廣澤之逢難事を告けり 余等驚愕悲憤暫絶言語
せり (中略) 廣澤去冬余に一書を送る 奮励大に時勢を歎し今日之事任する甚厚し
余又其書を筒中に出し永訣を思数読不堪流涕惨澹也 王政一新之際只廣澤の一人政府
上に余を助くるものあり 今日の事を聴き実に兄弟の難に逢ふと雖如此の悼悟如何と思
ふ (中略) 朝廷上前途之事は元より私情におゐても片時も不忍ものあり(明治4年
1月22日)
=======
後來也只要得空就會去掃墓,並在日記裡寫現在他過世已幾年了、怎麼還沒破案之類的…
…
德富蘇峰於《近世日本國民史 81卷》描述,認為這是個無稽之談:
「彼は長州人の中でいささか毛色の変わった人物だった。
彼は神経質な才子肌ではなかった。
彼は幹躯魁偉、膂力はなはだ強く、しかしてその重厚性がある点において、その立論の
穏健な点において、しかしてその一たび言を出せば断乎としてこれを主持して、容易に
屈せず、退場せず、改更しない点において、やや大久保利通と共通点があった。
彼は木戸ほどの眼孔と頭脳との持ち主ではなかったにせよ、木戸より踏張力があり、木
戸よりも平常心があり、木戸よりも練達であり、木戸よりも同僚としても、長官として
も、当てになる人物であった。
彼の横死は長州藩にとっては、実に取り返しのつかない一大打撃であったばかりでなく
、朝廷にとっても、大いなる損益だった。
長州藩の困難に際しては、木戸はその末期に至ってようやく但馬の潜匿所から舞台に現
れて来た。
これに反して広沢は時には俗論派の為に禁錮され、時には幕政の枢軸に辺り、時に幕府
第二征長の際などは、岩国から芸州にかけて出張し、尋常ならざる外交手段を発揮した
。
だから彼が長州藩を代表して、唯一の人物ではなくとも、木戸と雁行して、多くを下ら
なかったのは、決して不思議ではなかった。
大久保は木戸第一、広沢第二としたようであるが、それは木戸が大久保の持ち合わせな
い天才的性分の持ち主であった為で、同僚としては、むしろ広沢をその相手にしたもの
と察せられる。
岩倉もまたしかりであった。
広沢は行政者としては実にあつらえ向きの人物だった。
長州人は往々、恒久性を欠いた。
高杉でも、木戸でも、伊藤でも、井上でも、その濃淡の区別はあるが、概ねそうである
。
ただ恒久性の持ち主としては、広沢を最たる者とし、それ以外には山県を最もとする。
今や明治政府に恒久性、持重性、不動性を必須とする時に際して、広沢を失ったのは、
実に取り返しのつかない一大不幸と言わねばならない。
木戸がこれの為に失神せんばかりに落胆したのは、決してことさらに悲哀を仮装したも
のでないことは、今日において弁解する必要はあるまい。」
「在長州人中廣澤真臣非常特別,他並不是一個神經質的才子,卻具有重量感,在論點的
穩健性、不輕易改變自己的主張、不屈、不饒、果斷行事這一點與大久保利通非常相似。
他雖然沒有木戶的洞察力與頭腦,但比木戶更為練達,作為同僚、作為長官,都比木戶更
為可靠。
廣澤的死對於長州來說實在是一不可彌補的打擊,對於朝廷,也是十分可悲的損失。在長
州危難之際,木戶末期始登上舞臺,廣澤卻時而被俗論派囚禁,時而參與藩政中軸,在幕
府第二次伐長時更涉足岩國、藝州,發揮了不同尋常的外交手段。因此身為長州藩代表,
雖不是唯一人物,但隨行於木戶並不多讓也並非不可思議。
大久保定位於木戶第一,廣澤第二,因為大久保知道木戶處於自己無法踏足的天才領域,
但作為同僚,大久保更多時刻相對的是廣澤,岩倉同樣。廣澤是一個非常適合行政的人物
。長州人往往缺乏恆久性。高杉、木戶、伊藤、井上,雖有濃淡之差但大致如此。恆久性
第一為廣澤,之外就是山縣。
在明治政府最需要恆久性、持重性、不動性之際,失去廣澤不能不說是一大不幸。為此木
戶大受打擊而至昏厥,當然也不是偽裝悲傷。實在沒有為此而辯解懷疑之必要。」
歷史小說家古川薰為此寫過一篇小說《誰が広沢参議を殺したか(誰殺了廣澤參議?)》
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三千世界のカラスも呆れる
※ 編輯: betty302 來自: 114.43.37.142 (01/02 19:46)
嗯啊,既然提到了就補充一下
薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀
長州藩:大村益次郎、木戸孝允、前原一誠、広沢真臣
肥前藩:江藤新平
肥後藩:横井小楠
公家 :岩倉具視
被暗殺死的:大久保利通、大村益次郎(傷口敗血症)、広沢真臣、横井小楠
叛亂的:江藤新平(佐賀之亂)、前原一誠(萩之亂)、西鄉隆盛(西南戰爭)
被砍沒死的:岩倉具視
病死的:木戸孝允、小松帯刀
※ 編輯: betty302 來自: 114.43.37.142 (01/02 20:49)