[爆卦]営業利益中文是什麼?優點缺點精華區懶人包

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在 営業利益中文產品中有2篇Facebook貼文,粉絲數超過9萬的網紅李怡,也在其Facebook貼文中提到, 蘋果日報の成功と失敗 敗者の回顧録 蘋果日報の成功と失敗 敗者の回顧録 「不党、不売、不私、不盲」は貫かれたか 李怡氏は香港を代表するジャーナリスト。学生時代から左派で親共の立場をとり1970年に評論雑誌『七十年代』創刊したが、中国共産党に反対に転じ、1984年に雑誌を『九十年代』と改称して香港...

  • 営業利益中文 在 李怡 Facebook 的最佳解答

    2021-06-28 11:24:33
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    蘋果日報の成功と失敗 敗者の回顧録
    蘋果日報の成功と失敗 敗者の回顧録
    「不党、不売、不私、不盲」は貫かれたか

     李怡氏は香港を代表するジャーナリスト。学生時代から左派で親共の立場をとり1970年に評論雑誌『七十年代』創刊したが、中国共産党に反対に転じ、1984年に雑誌を『九十年代』と改称して香港トップのクオリティマガジンに育てた(1998年停刊)。自らも長く寄稿してきた香港紙・蘋果日報(リンゴ日報、アップルデイリー)が6月24日を最後に停刊したのに際し同紙上で、同紙が実業家による創刊で読者のニーズに的確に応えてきた点を評価しながら、「法治」への過信が失敗であったと論じた。李怡氏の許可を得て、本人のフェイスブックから訳出する。【翻訳:富柏村】

     蘋果日報の停刊で、そこに連載されていた私の「敗者の回顧録」もまた中断する(訳注1)。
     蘋果日報は1995年に創刊され、その年末、私は論壇欄で毎週土曜日に評論「李怡専欄」の連載を始め、2005年から同紙論壇のメインエディターを2014年まで勤め、その間にエッセイや社説の「蘋論」いくつもの論評を書き、2016年から私の半生記となる「世道人生」の連載を今年3月まで続けた。私の半生は月刊誌『七十年代』、その後の『九十年代』の総編集を28年続け、その後、蘋果日報で25年の執筆だったので、半世紀にわたる筆耕の生涯で一半近くが蘋果日報とともに在ったことになる。
     この連載のタイトルを「敗者の回顧録」としているが、論筆の仕事、家庭や生活を顧みると、私の半生はけして総じて「失敗」ではなかったが、私が一生のなかでずっと求めてきた「理想」はいま振り返ってみると、幾度となく失望となり、価値観は粉砕され続け、その点から見ると私は「敗者」なのだ。
     蘋果日報の停刊前の末期の紙面に、この「敗者の回想録」の終章を書いている。四半世紀にわたりこの新聞に寄稿し編集にも参画し、毎日読み続けた新聞。私の「敗者」の定義からすると、この新聞も敗者である。
     しかし忘れてはいけないことは、これまでの香港で発行されてきた新聞のなかで、蘋果日報はかつてはもっとも成功した一紙であったことだ。その成功が失敗に向かった外的要因は、もちろん世界的な紙媒体の衰退とオンラインメディア情報の爆発的な増加だろう。しかし蘋果日報が、その上で停刊を余儀なくされたのは、我々が周知のとおり、強大な権力の介入があり、香港は「礼崩楽壊」つまり社会秩序やモラルの崩壊があり、人権は保障されず法治も蔑ろにされた、その結果でもある。
     蘋果日報の創刊者・黎智英(ジミー・ライ)はアパレル業界で成功した実業家で、メディア業界に参入した。連日、編集会議を開いて上級管理職ばかりか読者まで招き、すべての紙面の報道について見出しから記事内容まで余地を残さず評価した。「新聞は読者に読んでもらうものであって、新聞にはトップは一人しかいない、それは経営者でも広告主でも管理職でもなく、読者なのだ」と読者の関心を最優先にした。
     黎智英には新聞発行の経験はなかったが、商売の十分な経験があった。従前からの新聞界はジャーナリストや文筆家が集まり辣腕の編集長がそれを取りまとめていたが、我々が蘋果日報に垣間見たのは商才にあふれた商機を逃さない辣腕の経営者の顔だった。
     彼のメディア会社・壹媒体(ネクストメディア)社は週刊誌『壹週刊』と『蘋果日報』は発行部数を伸ばし、ゴシップ週刊誌の『忽然一周』やグルメ誌『飲食男女』が次々と評判となり、台湾版の蘋果日報も発行。どれもこれまでの新聞社経営のやり方を打破しての成功だった。
     しかし台湾での市場拡大を目指した地元紙の買収や香港でのフリーペーパー発行も失敗……ことに台湾のテレビ局「壹電視」経営は大赤字。蘋果日報は創刊から間もなく発行部数を大幅に増やしたがボス(黎智英)は投資を惜しまず経営コストもかかり利益は上がらない。富裕の青年が編集や論評の方針に一切介入しないことを約束して30億HK$(約420億円)で蘋果日報の買収の手をあげた時も、手元資金の枯渇していた黎智英はこの買収提案を拒絶した。
     この蘋果日報発行の長い年月のなかで中国は何度か黎智英の囲い込みを試みている。台湾にいた黎智英のもとに中国側の意を伝えるべく訪れた客を黎智英は保安員を呼んで追い出し、文化界のある大物は黎智英に大陸に戻り(黎智英は大陸生まれで香港への密航者である)中国での新聞発行を唆し、親類を通して北京旅行に誘ってもみたが、黎智英は頑なにそれを拒絶してきた。彼は自立した報道のために一切の妥協や取引を拒んだのだ。
     いずれにせよ、この商才ある経営者が設立した「壹媒体」が香港に出現し、従前からの新聞業界に勝る成功をおさめたことは中文新聞史では1926年に張季鸞(訳注2)が『大公報』を中国の近代ジャーナリズム黎明期の代表紙にしたことに匹敵する快挙だろう。
     張季鸞は「不党、不売、不私、不盲」という「四不」の原則を示している。特定の政党に加担せず、言論で取引をせず、私益を得ず、権力に盲従せず、つねに公器として公民の言論を代表すること。これは今のメディアにも求められる理念だが、大組織のメディアほど、これに忠実であることは難しく、黎智英もその「四不」のすべてをきちんと理解して実行できていたとは言い難い。
     権力に阿(おもね)ることはなかったが香港の民主化実現という言論で民主派政党支持となり、思考と行動が過激化する若年層と距離をとるか近づくか(2019年にはついに「不割席=仲間割れせず協働」と腹を括った)、不党は困難な状況だった。言論で取引も私益もなく、「盲従せぬ」は自明だが、どの程度それができたかは意見の異なるところか。
     そんな黎智英の最大の失誤は彼が最も尊重する遵法と法治への過信といえるだろう。1997年(香港の中国返還)の2年前に蘋果日報を創刊した当時、黎智英は中国政府が香港基本法を遵守し、平和的に民主的な香港統治を実現できると信じていたのだ。しかし中国政府が最も忌み嫌う方法論は、暴力的抗争ではなく、法に基づく和平的な手段で人民が自主権を勝ち取ろうとすることなのだ(訳注3)。
     蘋果日報がない香港はどうなるのだろうか。少なくとも政界・財界の裏取引を暴くようなメディアは存在しなくなるだろう。例えばキャリー・ラム(林鄭月娥)行政長官が一昨年、中央政府に当てた報告(強硬政策は市民の反感を得るだけ、何らかの妥協が必要といふ内容の彼女の本心を吐露した内容)も蘋果日報が特ダネにしたが、「壹媒体」を除けばニュースの来源を秘匿してニュース提供者を本当に保護するメディアは他にないから、こうした情報提供もありえない。
     私が蘋果日報の論壇欄に関わっていた時のアシスタントだったカリーナは昨日、フェイスブック上にこう書いた。「蘋果日報に別れを告げるなんて考えたくもない。どうすれば『精神』に別れを告げることができるだろうか。殊更、今日の香港では……」
     「成功があがりでもなければ、失敗が終わりでもない。肝心なのは続ける勇気である」(ウィンストン・チャーチル)。「不党、不売、不私、不盲」という「四不」の勇気、それは蘋果日報の「精神」そのものであって、それが人々の心に深く根ざしている。

    (2021年6月24日版蘋果日報に掲載)

    (訳注1)連載は今後は李怡のフェイスブックで継続される
    (訳注2)ちょう・きらん[1888~1941] 日本に留学し東京第一高等学校(後の早稲田大学)に学ぶ。中華民国成立に関わり孫文の秘書務め、ジャーナリストとして『大公報』紙の再建に加わり見事に論陣を張り、中国の近代ジャーナリズムの確立に業績を残した
    (訳注3)抗議活動が暴力的であれば武力鎮圧で済むが合法的な手段ではいちいち対応して何らかの交渉や妥協が必要となるから中国共産党政府がそうした手段を嫌うと李怡は見ている
    「 不 党 、 不 売 、 不 私 、 不 盲 」 は 貫 か れ た か
    李 怡 ジ ャ ー ナ リ ス ト
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  • 営業利益中文 在 許幼如的職場學習路 Facebook 的精選貼文

    2021-02-15 10:01:57
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    送到家門口的經營學

    雅馬達如何從貨運業者轉型為宅配業者?

    1. 困境:

    曾經是日本第一的大和貨運,在競爭業者成本更低、自己的錯誤決策、大客戶的三越百貨惡性砍價後,從市場領導者陷入營業利益率降到C級末段班,只差沒被踢出市場的岌岌可危局面。


    2. 錯誤決策的長期影響:

    貨運市場大抵分為有需求量大且地點固定的大型客戶,以及需求量小且運送時間與地點樣態較多的小型客戶。一般認為運送前者效率較高,後者則是浪費時間又收入低。

    為了更好的運作效率,第二代的小倉昌南先是定下只收大型客戶,拒收小型客戶的決策。



    他很快發現這個決策會導致營業利益率降低:

    一來是他們只在關東市場有優勢,關西市場切入太晚根本無法收到貨物。

    二來是他們據點主要設在昂貴的東京都內,人工費用比同業貴上五千元。

    三來是大型客戶的市場價格較低,而且客戶更有議價空間。

    

企業比起人更有路徑依賴,一個決策下達後,再要更改難度極高。

    不但員工會困擾(你要不是之前就是現在把我當白癡,如果是之前當白痴,那怎麼知道現在你講的不會再改,如果是現在把我當白痴,那我幹嘛裡你),

    客戶更是生氣(以前要請你送貨被你拒絕,說我家業務量太低,現在轉過頭來求我了齁,我偏不)。


    3. 改善現有貨運業務的運作效率:

    1960~1970年間他先改善既有業務運作效率,提升每個人的運作能量。但這不是本記錄的重點,跳過。


    4. 目光望向新的宅配市場:

    前面提到錯誤決策導致利益率降低,但領導者不能被過去的失利打倒啊。

    小倉昌男把目光望向宅配市場。

    

畢竟比起貨運市場有許多先行者,宅配市場雖說客戶更多量更小,但目前營業的只有郵局一家。

    等於是進入無競爭者領域,打得下來的話就是市場領導者。怎麼想都很誘人吧。


    5. 宅配市場規模到底多大?

    

要進入新市場總是要知道市場規模,小倉昌男用了兩種估算方式評估。



    首先發動東京中野區兩千多個營業所的員工,估計自己負責地區一年可能有多少配送需求?

    

員工回報的結果是一年兩件,推算下來東京中野區一年四千多件。

    如果東京中野區佔全國百分之一,那全國四十多萬件。如果一件五百元日幣,那不過是兩億元日幣的市場。(書上只寫了一年兩件,後面的推測是我自己估計的)



    到底是
    (1)市場真的小,還是
    (2)員工估計保守,還是
    (3)郵局服務不夠好,所以使用的人少?


    
至少要先知道郵局的業務量大小,根據小倉昌男的情報,郵局小包一年運送量一億九千萬包,鐵路的小箱貨品一年六千萬包,加起來兩億五千萬包;

    一件五百元,一年就1250億元的市場規模了。



    1970年代後期,只有一個競爭者的1250億元市場,真是誘人。

    儘管誘人有進入的本事嗎?要知道自己有沒有本事,先要估算需要擴充多少營業所、運輸到多少量才能損益兩平等問題。

    (待續)

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